堺市を走る電車といえば、JRに南海・・・だけではなく、大阪と堺を結ぶ路面電車「阪堺電車」があることは意外に知られていない。近年利用者の減少により存続が危ぶまれているこの阪堺電車だが、近隣にイオンモールが開業したことにより若年層の利用が増加、なんとか踏みとどまっている状況らしい(といっても、これは10年ほど前の話なので今どうなっているのかはよくわからない)。
さて、今回はそんな阪堺電車に揺られて「大小路」なる停留場(路面電車なので駅ではない)にやってきた。かつてはこのあたりで和泉国と摂津国が分かれていたようだが、そんなことも今は昔、現在ではそろって大阪府堺市の土地となっている。
そんな阪堺電車の大小路電停留所の周辺には、路面電車に並行する形でアーケード商店街が設置されており、かつては大阪市の心斎橋筋と同じレベルで賑わいを見せていたものの、現在は苦しい状況に喘いでいる商店街があるのだとか。今回は、そんな堺市堺区に位置する商店街「堺山之口商店街」について、その様子を見ていくこととする。
堺の(元)中心 堺山之口商店街(アスティ山之口)
堺山之口商店街は、堺市堺区に位置する商店街。堺市で最も古い商店街として現在まで営業を続けている。商店街組合側も正確にいつごろ商店街が形成されたのかは把握していないそうで、公式サイト(アーカイブ)にも
堺市内の商店街の中で、最も古い歴史と伝統があることに疑いはありませんが、正確に、いつごろ形成されたのかは明らかとなっていません。『堺あれこれ』によれば、文化文政のころ、宿院に「大寺の芝居」というものができ、その周辺に遊芸や見世物の小屋、飲食店が自然に集積し、この歓楽街の続きに、呉服や装身具、おもちゃなどを扱う店が並ぶようになった、と言われています。
との説明がなされている。とはいえ、文化文政ということは江戸時代までさかのぼるわけで、相当長い歴史があるのは間違いないだろう。
元々このエリアは「環濠地区」とも呼ばれ、戦国時代から国際貿易港の中心的な存在として栄えていた中心的なエリア。戦国時代・堺といえば千利休を思い浮かべる人が多いだろうが、まさに皆さんの想像する商業で栄える街・堺の姿がそこにあったというわけだ。多くの人で賑わっていたのもうなずける。
2010年ごろまでは「アスティ山之口」という名称がつけられていたこの山之口商店街。以前のアーケードには「ASTY」という文字が入口部分に設置されていたのだが、リニューアル後はその名称が消えてしまった。堺市の公式サイトで調べてみても平成25(2013)年の文書を最後に登場しなくなってしまったし、一体どこへ消えてしまったのだろうか。
名称の問題はさておき、第二次世界大戦直後は「大阪の心斎橋筋、堺の山之口」と呼ばれるほどの栄華を誇っていたこの堺山之口商店街。ところが、堺市のベッドタウン化や大阪市内への商業需要の流出、阪堺電車の利用者減などもあいまって商店街は徐々に衰退、今では過去の輝きはどこへやらといった状況になってしまっているらしい。そんな堺山之口商店街の現状は、いったいどのようになっているのだろうか。ここからは、写真を通じて現在の山之口商店街の様子を見ていきたい。
かつての栄華はどこへ・・・
堺山之口商店街の概要と大まかな歴史的背景について触れてきたところで、さっそくその内部の様子を見ていくこととしよう。商店街の南端・宿院側から歩みを進めていくこととする。休日の訪問ではあったが、人々の姿はそれほど多くない。
ゆっくりと前に進んでいく。シャッターが目立ち、なかなか残念な雰囲気が広がっている。
近年ではもはや珍しいことではないが、お店が閉まるのみならず、その跡地が駐車場になっていたり、よくわからない外国系の方々が運営する謎ショップへと変貌していたりする。近年の日本といえば日本らしい。
館内には「開口神社」なる神社も立地。奈良時代から続く由緒正しき神社で、かつての堺の反映の名残として境内に多くの社を持つ由緒正しき神社なのだが、残念ながらこちらも参詣 客は数えるほど。てか神社自身が「かつての堺の繁栄の名残」なんて言っちゃってるし。心斎橋筋と比較対象に挙げられるほどの栄華を誇ったこの山之口商店街だが、今や比較するのも失礼なほど差がついてしまった。悲しい限りだ。
近年では「堺ヤマノクチ大学」なるものを設置、「集う場所をつくることで商店街の活性化もできるのではないか」との考えのもと、カラオケやヨガ、英会話などの講座を設置して人々のコミュニティづくりに励んでいる模様。(上の画像にはないが)「ジュニアプログラミング」なんてのもあったりしてなかなか面白い。
ただこの商店街の風景を見るに、それが結果的に商店街の活性化につながっているかと言われると、またそれは別の話。山之口商店街は今後も難しい運営を強いられそうだ。